16.Broken fang of wolf

「がぁぁぁぁっ…!」

 ブラックの顔面を殴りつけた。その瞬間…らせつの右手に雷に打たれたような激痛が走った。根幹からバラバラに砕け散るような凄まじい痛み、それが右手を灼くように駆けめぐる。

(こんの……ポンコツがぁ………!)

 胸中で右手に怒りを飛ばして、らせつは全身に広がる苦痛に負けて腰を折った。細かく痙攣する右手を無理矢理引き戻し、胸に抱えてうずくまる。バランスが崩れて顔から地面に突っ込んだが、激痛に紛れて痛いと感じなかった。
 ……頬にあるぼんやりとした熱、それだけが痛み以外の感覚だった。それは涙…だろう。情けなく、認める。情けなく…己を。

「………おい、何が…」

 頭の上から、父親の呆けた声が降ってくる。が、しばしして彼は気付いたのだろう…洞察の鋭さは並では無かったから…おもむろにしゃがみこんで、芋虫のようにうずくまるこちらの胸元に手を突っ込んできた。思いやりの無い粗雑な動作で殴りつけた右腕を掴み、ぐいと引っ張り上げる。抵抗したが、全く力が入らずあっさりと右手を奪われてしまった。

「……………」

 ブラックは何度からせつの右腕を揉みしごき、その感触を確かめていた。ほんの数秒、それだけで彼は理解したようだった。
 ブラックの嘆息がらせつの頭にかかる。
 
「……………テメェ」

 悲しげに…? 父親のそんな声は聞いた事がなかったから、もしかしたら違うかもしれないが…どこか芯の抜けたような声で、ブラックはらせつに言った。

「ボロクソじゃねぇか、こりゃ…」

 熱い。痛みよりも熱が、頬の熱さが、今の感覚のすべてだった。惨めにつんのめり、顔を地につけたまま、溢れる涙を止める事が出来ない。

(惨めだ、俺は…)

 うつろに、絶望というものの片鱗を感じながら声無く呻く。
 何が絶望か? …動かないこの右手が絶望では無い。殴れななかった事が絶望ではない。父にそれを知られた事、それこそが絶望だ。生みの親であり格闘術の師である父に、殴れないちっぽけな自分の実体を知られた事が絶望だ。
 そして父は…彼もまた絶望するだろうか。己の全てを叩き込んだ芸術品がこんなにもつまらない粗悪品に成り果てた事に。

「…………なんで…」

 …おそらく、しない。彼は絶望しない。するわけが…ない。彼はとうに自分を見限っているはずだ。反発し、家を出た息子のことなど、とうに見限っている。はずだ。恩知らずに対する怒りはあれど、己から離れたものに対する執着心はあっさりと断ち切るのが彼の性分のはずだ。はずだ。

「…………なんで…」

 ブラックの落胆した顔を拝もうと、らせつは重く堅い首をなんとか回し、上を、ブラックの顔が見えるほうを向いた。
 次の瞬間、

「……な・ん・で…」

 らせつの視界に何かが躍り、滑らかな軌跡を描いて真っ直ぐ顔面へと降ってくる。確認しようと目をこらすと、それは

がっっっ

 と激しい勢いでらせつの鼻面にぶち当たった。ブラックの拳骨だった。

「なんでこんなになるまで無茶しやがる阿呆!馬鹿かテメェは!」

 星が飛んだ。いや…錯覚だが本当に見えたような気がした。ぱちぱちと目瞬きして視界を回復させると、ブラックは心底怒った顔でらせつを見下ろしていた。憎しみ?殺意?そんなものではない。怒りだ。単純な。咎め戒め諫める為の。

「ったく、もうちっとカラダを大事しやがれってんだ。じゃねぇと母ちゃんも天国で心配だろが?」

 それは懐かしい、幼少時代に幾度と無く見てきた父の怒り顔だった。


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