8.Search & Destroy
目をつむり、肺に呼気を流し込む。深く、深く、ゆっくりと…深く。
清冽な空気が肺を、喉を、脳髄を心地よく震わせる。酸素を送り込まれた脳がシャープに尖り、体中の感覚が鋭敏になってゆく。指先に触れる空気の密度、肌を刺す空気の冷たさ、瞼に閉じられた向こうの風景…全てが手に取るように理解できる、そんな錯覚を覚え始める。
「……………」
息は吐かない。吐かずに、高められた意識といっしょに身体の奥に留めておく。ぎり、と強く歯を噛み締め、彼は閉じていた目を開けた。
彼が…らせつが今いるのは、森の一角、セントラルドーム周辺地域へ続く転送装置のある広場。その手前である。岩の壁に身を隠しながら、壁に背を預け、深呼吸していた。
ふと、手元を確認する。シルヴィより借り受けた真紅の長剣…彼女は『試作品』と呼んでいたか…が右手に携えられている。柄も、刀身も、鍔までもが鮮やかな赤。宝石で作った芸術品のような美しい剣。
(……よし)
らせつの双眸がぎらりと光る。冷たく硬い感触を伝えてくる柄をしっかりと握りしめ、もたれていた岩壁から身を離す。背に付いた泥土はそのまま、彼は翻るように振り向いた。転送機のある広場、その入り口へと。
広場をざっと眺めてみる。広さはおよそ10m四方。まわりを取り囲む丘によって窪地のように造成され、ここと真向かい-----つまり広場の反対側-----にある亀裂のような丘の隙間からでないと出入りが出来ないようになっている。地面は綺麗に下生えが刈り取られ、周囲の丘には無数の美しい花々。広場の奥まったところでは小川が流れ、水草が涼しげに冷水を浴びていた。野を這う柔らかな風が背丈の短い野草をたなびかせ、かぐわしい原生の花の香りを運んできている。
パイオニア1の人間はここを庭園とするつもりで手を入れたのだろう。
美しい、とらせつは認めた。この星は美しい。遠く離れた故郷と比べても見劣りしないほどに。人間が生活する環境としては最高のものだ。全く、申し分ない。
申し分ない。たった一つのイレギュラーを除けば、だが。
(二匹…か)
そこに居たイレギュラーは二匹だった。広場の中央をうろつく亀。亀……亀? …まぁ、甲羅があるのだから亀か。甲羅があるから亀。熊は甲羅を背負わないし、甲殻は備わっていない。例え二足歩行しようとも、爪が鋭く長くても、奇声を発して鳴きだしても、甲羅を背負っている生き物ならば亀で良いのかもしれない。
とにかく、亀が二匹広場にいた。こちらには気付いていない。歩く事に意味でもあるのか、ただぐるぐると同じ場所を周回している。
(……………手前の奴は、5m…向こうはさらに2m……ってとこだな)
大体の距離を目算する。5mと、2m。その差は3m。
じり、と一歩踏み出す。足音は忍ばせず、左足を半歩前に。そして右足を心持ち下げて溜めを作り、姿勢を低くする。
ひゅっ-----
風が巻く音だけが耳に残った。あとは一瞬で景色が流れて変わり、あっというまに5m先にいた亀の元へと辿り着く。疾駆したベクトルは身体を更に進めようと背中を押してくるが、叩き付けるように前へ踏み込んだ右足がそれをあっさりと相殺させた。足音を聞きつけてこちらを振り返る亀-----ほぼ真後ろ、背中を向けていた-----が完全に振り返りきるのを待って、水平に突きだしていた赤剣を亀の喉笛に刺し入れる。
驚いた表情-----だろう、おそらく-----のまま、亀はごふっと口から血を吹き出した。振り上げようとした右手が中空で力を失い、芯が抜けたようにだらりと下がる。亀の全身が脱力して前のめりになり、切っ先が次第に深く食い込み始めた。
剣を抜く。亀の巨大な体躯を支えてやる義理は無い。倒れゆく亀から身をずらし、切っ先を引き戻す。傾いでいく亀をじっと見やって-----
ずどん
地響きをたてて亀の身体は地に倒れ伏した。そしてそのまま、ぴくりとも動かなくなる。
(……………)
次。
漠然とした声なき声が頭に響く。それに促されるように視線を上げると、すぐ眼前に二匹目の亀が迫ってきていた。一匹目の死骸を挟んで立ち、高々と右腕を振り上げている。太い、丸太のような腕。その先に生えた、ナイフをそのままくくりつけたような鋭利な爪。
雄叫びのつもりか、亀は大声で鳴いた。
びっ----------
ゴム板を強くこすりつけるような音がして、ぱぱっ、と血飛沫が散った。生臭い血糊が雨のように降り注ぎ、らせつの黒髪と顔を赤く汚していく。
腕。腕が肘の所で骨ごと斬り裂かれ、皮一枚残してプラプラ垂れ下がっていた。腕は高みに掲げられていたため傷口も上にあり、そこから血が大量に滴ってきている。太い腕。甲殻に広く覆われた獣の腕-----亀の右腕。
また亀が鳴いた。ただしこれは雄叫びではなく、苦痛にあえぐ苦悶の声。
が、
どん!
それを遮るように再び振るわれた赤剣が亀の頭蓋を喉仏まで縦にかち割ると、その声ももうしなくなった。ふしゅう、と声帯を震わせられなかった息が漏れるように流れ……
一匹目とは違い、二匹目の亀は後ろ向きに傾いだ。
ずどん
地響きをたてて亀の身体は地に倒れ伏す。そしてそのまま、ぴくりとも動かなくなった。
-----ようやく、らせつは肺にずっと溜めていた息を吐き出した。目をつむり、深く、ゆっくりと…深く。
「……俺…は…」
5mの距離を一息に駆け抜け、剣を突き出し、剣を振り払い、剣を打ちつける。深呼吸してから彼が行った動作はたったそれだけ。だが、彼の身体はそれ以上の何かを見えないところでしてきたかのようにひどく困憊していた。
肺に染みゆく空気がこの上なく心地よい。柔らかい風が肌を撫でてくれるのが心地よい。生きていることが心地よい。戦いの後恍惚とする思考。それもまた、心地よい。
「俺は…忘れてなんかいない……俺は戦いの中で生まれた化け物なのだから…」
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