第三章 黒『鬼』
この街には鬼が出る。
殺戮と血肉を求めて鬼が出る。
月の明るい晩、月の出ない晩、雨夜、嵐夜、雪夜。
あらゆる夜に、においを嗅ぎ付けて鬼が出る。
気をつけよ、生あるものよ。
ぜったいに視線(め)をあわせてはいけない。
ぜったいに言葉をかわしてはいけない。
あらゆる接触をもってはいけない。
もしそれに触れたならば、命はもとより魂はいうにおよばず
ひとの根源たる"存在"まで喰らわれ、果てる。
ひとよ、忘れるな。
この街には鬼が出る。
漆黒の闇をまとった鬼が出る。
ぜったいに視線(め)をあわせてはいけない。
ぜったいに言葉をかわしてはいけない。
あらゆる接触をもってはいけない。
この街の鬼に触れてはいけない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
グランツァに渡来して一月の間に、"鬼"の噂は耳にしたことがあった。
殺戮と血肉を求め、夜の街を跋扈する黒衣の"鬼"。
市警察特殊部隊の一個中隊をたった一人で殲滅した"鬼"。
高名な賞金稼ぎをことごとく葬り去ってきた"鬼"。
鮮血にまみれ月夜を浴び幾多の死体を下に冷たく笑う"鬼"。
(そうかあれがそうか)
胸骨と肋骨を砕かれ右腕をへし折られ、満身創痍ながらも気力で刀にしがみついて、侍--小畑修造はその"鬼"と対峙していた。
黒衣と闇で身を包み、あられもない殺意を発している"鬼"の男。若い男だ。30に近い自分より遥かに若い。だが発散される殺気は桁違いに巨大きい。殺人を生業としてきた自分よりも遥かに。
(グランツァの…鬼…!)
恐怖の権化が目の前に居た。
らんらんと狂喜にゆらめく禍々しい双眸。吊り上がり犬歯を剥いた口元。闇に溶け込む黒色のスーツ、髪、瞳。そして…
「化け物が…っ」
"鬼"の周囲にわだかまる、闇よりも深い"闇"。
見えるはずのないものが意思を持ったようにうねり、"鬼"の体に身をはべらせている。
先程唐突に喰らった一撃…あの"闇"の波濤の一撃で、こちらの全身はズタズタに破壊された。
「化け物…」
思わず漏れ出た言葉が"鬼"の興味をひいたらしい。
凄絶な殺意だけをたたえていた瞳に、すこしだけ愉悦の光がともる。
にやり、と口の端を歪ませる。
「よく言われる。ではそれと対峙したお前は何だ。人かひとごろしか化け物か?」
冷ややかな声音で"鬼"は言った。
おぼろげな月明かりの下、みじろぎひとつせず、鋭い眼差しでこちらを見ている。
問いだ。死神の問い。死を拒絶するためには答えなければならない。
「俺は……」
人間だ、と小畑は言いかけた。
その瞬間、喉の奥から逆流してくる衝動が言葉を詰まらせた。
(人間…?)
酸素が欠乏したように思考が寸断され、脳裏に幾つもの光景がよぎる。
血にまみれ死に身を寄せ、修羅として歩み続けた日々。
己の全てを剣に投げ打ってきた日々。
刀の鬼として生きてきた日々。
ぎしぃ
思いがけない力が手にこもり、村正の柄が軋み声をあげた。
折れた右腕は垂れ下げたまま、左手の力だけで刀にすがり、折れ曲がっていた体を起こす。
もう迷いも惑いもない。
いつも通りの剣"鬼"として、目の前の人間を殺すだけ。
小畑は石畳から村正を引き抜き、片手で中段に構えて切っ先を"鬼"に突きつけた。
そして笑う。いつも通りに、殺戮の心地よさを味わうために、笑う。
「俺も化け物だ」
"鬼"も笑った。
これからくる熾烈な闘争を悦んで、笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「は…はははははは!」
深夜の街に侍の哄笑がこだまする。ひと一人居ない静まり返った町並みは、狂ったように笑う男の声を無造作に反響させるのみ。冷たく降り注ぐ月の光は、拮抗して退治する侍とブラックの二人だけを照らし出していた。
青白く浮かび上がる二つの人影と、その周りに展開する怜悧な空気。何者も近寄ることの出来ない鋭い気配が、街通りの上に死闘の舞台を作り上げていた。
「楽しい。楽しいぞ、『鬼』よ」
片手で刀を構え、ぜいぜいと荒く息を吐きながら、それでもなお嬉しそうに侍は笑う。左手は肩から指先まで満遍なく砕かれ、肋骨は間違いなく左胸側を数本折られ、口元から血を流しているところを見ると内臓も潰されているはずだ。なのに奴は笑っている。爛々と殺意の炎をたぎらせて、刀の切っ先も爛々と煌かせて。笑っている。
「そうかい」
そんな侍を見つめながら、ブラックもまた、笑っていた。口端を吊り上げ犬歯を剥いて、ナイフのように双眸を尖らせて、だが侍とは決定的に色の違う、愉悦とはまったく違う、冷たく暗い笑みを浮かべていた。
戦局は、圧倒的にブラックが有利。だが満身創痍の侍に対して、ブラックはまったく気を抜いていない。手負いの男を前にして、男が健常であったころ以上に意識を張り詰めさせて、それと対峙している。
「俺もだ」
じり、とブラックが侍へ歩み寄る。投げ出すように無造作に、けれど微塵も無駄なく繊細に。呼吸するようにただ動くその仕草全てが、完璧な殺人鬼としてブラックを仕立てていく。
侍との距離は、のこり5歩ほど。じっと刀を構えて動かない侍のもとへ、ゆっくりと迫っていく。
「感謝するぞ『鬼』よ」
侍の目は死んでいない。爛々と、燃えるように爛々と、ブラックの命に喰らいつくために輝いている。
手負いの獣は恐ろしい。諺など好きではなかったが、今だけそれを認めても構わないと思った。
じり。ブラックが侍の間近まで辿り着く。手を伸ばせば触れられる距離、すなわち-----彼の間合い。
「今日ほど闘いが楽しかったことはない。今まで何度何人殺しても味わうことの出来なかった境地に、今ようやく辿り着くことが出来た…」
不浄なるものの翳りを振り払い、侍は心底、愉しそうだった。
それに応えてやるように、ブラックも笑みを深くする。冷たく暗い、『鬼』としての笑みを。
ほんの一瞬、殺し合いのさなかに意志を交錯させて、二人は幕引きの為にお互いへと踏み出しだ。
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