終章
グランツァの『鬼』は、なんてことはない、ただの噂話だ。この街の建造が最盛期を迎えていた十数年前、雑多な人種の混入により荒れに荒れた街の治安を、恐怖という名で鎮圧させたたったひとりの男がいた。黒衣をまとい黒と名乗ったその男は、自らを嘲るように『鬼』と自称していた。時が流れその男もいなくなって、ただ幻のような存在だけが人の間で語り継がれ、いつしかその幻(『鬼』)だけがこの街に棲むようになった。
たったそれだけ。真実なんて、たったそれだけ。
「ふぁ…」
思いのほか強かった眠気を噛み殺せず、ブラックはあくびを漏らした。自室のベッドの上で、ぼんやりと夜空を見上げている。
一仕事終えたあとの身体は、疲労と昂ぶりでちっとも眠りにつこうとしない。熱にうかされたようにふわふわとした気分で、目的もなしにただ夜空を見上げつづけている。
「……」
たぶん、落ち着かないのは仕事のあとだからではない。はじめて面と向かって『鬼』と呼ばれた…おそらく、そのせいだろう。
「噂話だよ、あんなモン」
誰にでもなくそう言って、ふん、と鼻から息を漏らす。
だが、それとはうらはらに昂揚している自分がいるわけで…。
「………」
ごろんと寝返りを打つ。
「早く帰って来い…」
拗ねたようにそう言って、ブラックは眠れないまま夜空を見上げ続けた。
誰かに文句でもこぼさないと、とてもじゃないがやりきれない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「いつもながら見事な報告書だな。菊姫」
だだっ広い執務室。飾り気のない実務的な調度だけがまばらに置かれた部屋の最奥で、ダミアン・レイスは机に就いて書類に目を通していた。
時刻は早朝3時。通常の出勤時間よりも遥かに早い。
「ありがとうございます、市長さん」
にっこりと、ダミアンの向かいに立っている少女が笑った。黒い和服を着た、十代半ば程の黒髪の少女。頭の先から靴の先まで真っ黒いいでたちだが、肌だけは透けるように白い。まるで死人のように-----儚げで、白い。
「慣れると楽しいんです、字を書くことって」
だが貌の色とはうらはらに、少女の笑顔は真昼の光のように明るかった。
「そうか。うちの葛葉も君ほど要領がよければ良いんだがな」
そう言いながら、ダミアンは書類を机に落とし、さらさらと書面にペンを走らせた。
ダミアン・レイス。飽きるほど書きなれた自分のサイン。市長のサイン。
「ご苦労だった。ブラックにも礼を言っておいてくれ」
「はい」
またもにっこりと、少女は笑った。
「では失礼します、市長さん」
ぺこり、と一礼して、少女が振り返り-----そしてかき消える。
跡形もなく、闇色の霧が晴れるようにいなくなる。
「………」
少女が消えるのを見届けて、ダミアンは息を吐きながら椅子にうずもれた。
そして眠るように目を閉じて、両手を腹の前で組み合わせる。
「…似てきたな」
瞑目しながら思い返すのは、12年前の景色。
かつて『鬼』と呼ばれた一人の男の姿。
「あいつも菊姫に頼りきりだった」
そう言って苦笑して、ダミアンは本当に寝ることにした。今の今まで心配して起きていたのだが、どうやら彼にはそんなもの無用のようだ。つくづくそっくりだ、と胸の中で呟いて、深い深い眠りへと落ちていった。
人殺したちの夜が、終わりを迎える。
《完》
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