第一章 仕事日和


 独り闇の最中に目が醒めて。
 その最中が夢なのか現実なのかも区別出来ないまま、何気なく目を開ける。
 そして、呻く。

(また闇だ……)

 目を閉じれば、再び眠りに落ちるのかもしれない。
 そしてまた目を開けて、呻き……再び眠るのかもしれない。
 何度目覚めても何も変わらない。何度目を閉じても何も変わらない。瞼の裏に理想を描いても、開いてしまえばそこに飛び込むのは一切の虚飾の無い現実の世界。現実という名の現状。
 それはわかっている事だ。今まで何度も同じ事を繰り返してきた。毎朝、目覚めの度に、きまって目覚めを心が拒絶する。それを時間をかけてゆっくりと噛み殺し、陰鬱に表情を歪めて起き上がる。毛布を除けて嘆息をつき、掌に滲む汗と髄の芯に鈍く残る不快感を感じる事で、今日も自分は自分であったと自覚する……。

(カーテンは開けて寝ようかな……)

 ベッドは窓のある壁際に押しやられている。枕の右、つまり彼の右側に、黒いカーテンで塞がれた窓がある。

シャッ

 だるさの残る右手で、剥ぎ取るように乱雑にカーテンを引き開ける。
 流れ込んでくる陽光が目の奥を灼くが、寝惚けた頭を覚醒させるには丁度良い刺激だった。
 しばしして、霞が晴れるように室外の風景が見えてくる。
 貿易都市グランツァ。その整然とした街並み、活気のある店通り。

「良きかなよきかな…今日も仕事日和で素晴らしい」

 皮肉混じりに声を出し、ブラック・H・ハートはベッドを降りた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 貿易都市グランツァが建てられたのは今から三十年前。国議会で都市計画法が立案、可決された年に、その施行第一号として大陸北端の貿易港を改修して作られた。実際に工事が完了したのがそれから15年後で、それから更に15年を数え、人口は67万人に達している。
 現在グランツァは大陸でも五指に入る巨大都市となり、大陸の経済を支える重要な商業拠点としてその都市評価も高い。他大陸との交易の窓口である為に、都市は常に多様な人種がひしめき、雑多に混み合っていた。

「随分とまぁ…人の多い街だな」

 そのグランツァを一望できる丘の頂上……どうというでもない表情で街を見下ろしていた男が、いかつく角張った声で呟きを漏らした。焦げ茶色の羽織の襟から腕を出し、あごの無精髭をざらりと撫でる。
 珍妙な出で立ちの男だった。東方舶来の羽織袴を身にまとい、帯に大仰な和刀を二本差している。ざっくり適当に切った黒髪は鬣(たてがみ)のようで、三十を過ぎた彫りの深い風貌とあいまって彼を獅子のように仕立てていた。
 眼下でせわしなく動く人間の波を、かれこれ小一時間程眺めていただろうか。それだけの時間を費やして男へ導かれた物は、結局その呟き一つだけだった。

ちゃり

 腰に差した剣の留め具が、擦れ合って小さな音をたてる。男が踵を返し、街とは反対方向へ歩き出したのだ。風にも街にも関心が無くなり、いつまでも此処にとどまっている理由は失せた。故に立ち去る。次なる関心の的へと向かって。

「今宵も月は…美しいだろうか」

 別れを惜しむように、男の背後で一陣の風が舞った。
 男はそれに気付いたが、振り返ることはしなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「…と、言う訳で」

 噴水広場に面したオープンカフェで、ブラックはとある女性と会っていた。
 灰色のスーツを小綺麗に着こなし、そつの無い態度で椅子に座ってこちらを見ているその女性は、市評議会執務室付専属秘書……俗に言う市長秘書である。栗色の髪を頭の後ろで束ね、流行の縁のない眼鏡をかけたその姿は色気とは縁遠い容貌だったが、秘書としてなら、まぁ、妥当なところではあるだろう。思いの外小柄で、華奢なのは室内業務が多い所為か。年齢は以前訊いた話では21歳--ブラックよりも二つ年下だったと記憶している。
 何気なく、ブラックは自分の身体に視線を落とした。彼女のものとさほど変わらない仕立ての闇色のスーツは、中身の人間の粗雑さが染み付いているのか、どうにも数段質が劣っているように見えた。
 と、彼女の視線に非難の気配が混じったのを感じて、目を戻す。

「…おわかり頂けましたか」

 トントン、と資料の綴じられたファイル・ケースの底でテーブルを叩き、彼女が窺うようにしてこちらへ訊いてくる。彼女が年下である事を忘れそうになる程その動作は大人びており、ブラックは内心でその老練さに舌を巻いた。

「概ね」

 勿論そんな様子はおくびにも出さず、いつも通りの淡泊な表情で、短く返事を出す。
 すると彼女はそれで納得したように一度頷き、持っていたファイルをこちらへと差し出してきた。

「ではこれを。後は、いつも通りに」

 ファイルを受け取ると、意外な重みが腕にかかった。怪訝な表情で彼女を見やる。

「……あの」

 問いかけると、葛葉はこちらの意図に気付いたのか表情を苦々しげに曇らせた。空いた両手をテーブルの上で組み合わせ、ばつが悪そうに顔を俯かせる。
 疲労したように溜息を吐き、彼女は漏らすように言った。

「また…市警察との連携が取れていないんです。署長さんはどうにも評議会を毛嫌いしているみたいで…」

 頭痛を堪えるように奥歯を噛み、絞り出すような声を出す。

「"それ"は経費の上乗せとして使ってください。いつもいつもブラックさんには負担ばかりかけてしまって……すみません…」

「別に構いませんよ、オレは」

 葛葉の様子を全く気にした風も無く、ブラックは冷淡に声を返した。

「仕事は独りの方がやりやすいですから。もとより無能な市警察を頼るつもりもありませんし」

 ファイル・ケースを開いて中を確認すると、やはり新札の束はいつもよりも多かった。
 それだけ見て、ぱたんとファイルを閉じる。

「では行きます。昼のうちに情報を集めておきたいので」

「あ、あの……」

 立ち上がったこちらへ何か言おうと顔を上げる葛葉。
 ブラックは彼女の顔へ視線を向け、発言を遮るように先んじて声を出した。

「葛葉さん」

「え、あ……はい」

 きょとんとして…彼女がこちらを見返してくる。
 ブラックは真顔になり、暫し彼女を見つめ……数秒ほど経過してから、

「似合ってますよ、その眼鏡」

 ひょいと肩をすくめて、微笑を浮かべておどけてみせた。

「……なっ…!」

 途端、鬱に沈んだ彼女の表情が一転して紅く染まり、呆気にとられたように硬直する。
 ブラックは意地悪く笑って踵を返し、数瞬後我に返った葛葉の罵声を背に浴びながらオープンカフェを出ていった。


<次へ>
<前へ>
<目次へ>