7.渇望


「はぁ……はぁ……」

 クルスニクが吹き飛ばされていった方向の夜闇を見据えながら、少年は荒く息をついて肩を上下させていた。露わになっている上半身にびっしり汗が浮かび、顔色も蒼白になっている。衰弱しているのだ――今の魔術を行使した代償は大きい。正直、成功するとは思っていなかった。

「く……」

 眩暈がする。思わず血の上に片膝をつく。身体の中が空洞になったような感覚、途方も無い脱力感が襲い掛かってくる。
 ここで退くわけにはいかない。確実に仕留めなければ。あの男は――我らの宿敵クルスニク。息の根を止めなければいつまでも追ってくる。

(血を……)

 失われた活力を補填する最良のものは、新鮮な人間の生き血。掌についた地面の地を舐める。――凝固し始めた血は不味さだけを舌に伝えた。
 舌打ちして、唾棄とともに血を吐き出す。唸る。血を。血を。怨念のように唸る。
 はた、と少年の目に映ったのは、路上に座り込んでいるさっきの女だった。

(逃げなかったのか……)

 浮かんだのは哀れみの念。それはいまだ心の中で破片になって散乱する"人間"としての感情。
 それと一緒に、喉が鳴る。ごくりと生唾を飲み下す音がする。あの女には血が流れている。暖かく柔らかな鮮血が流れている。
 ふたつの気勢が腹の中でせめぎ合い、足は進むでも退くでもなく路上に張り付いて動かない。先程までは逡巡無く人間を殺せた。おそらく、衰弱したせいで"ユダ"の血の影響力が薄れてきているのだろう。

「う……っ?」

 血が薄れてきている、と自覚した瞬間、腹の底から強烈な吐き気がこみ上げてきた。胃に溜まっている血が耐え難い生臭さを発する。ぐらり、と強烈な眩暈が意識を揺らし、それにつられてなすすべなく石畳の上に倒れこみ、強烈に額を打ち付ける。
 額の痛みはまるで感じない。猛烈な吐き気だけが身体を駆け巡り、まともな思考をなにひとつさせてくれない。血にまみれた石畳を血にまみれた指先で掻き毟り、声にならないかすれた嗚咽をあげて身悶えする。

「く……そ……」

 手が震える。腕も、足も、身体全体が波打つようにわなないていた。
 これが何なのか、少年は知っていた。拒絶反応。身体の組成が人間からユダのものへと変化しつつある、その反作用だ。
 故に。その震え、不快感を拭い去るにはどうすれば良いかは、少年も、その内にあるどす黒い血流も、思い返すまでもなくわかっていた。

《血を飲め。奴の血を》

 身体の中の"ユダ"が伝える。怨念のように繰り返す。
 それはこの耐え難い苦痛の中に差し伸べられた藁、あるいは天上から地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。
 それを"すれ"ば楽になれる。苦痛も不快も震えも全ておさまり、また夜を翔ける事が出来る。

《案ずるな。貴様はもうヒトではない。ヒトという括りの中には居ない》

 甘美なるささやきは邪な誘惑。
 変質の激痛"ジューダスペイン"は、果たしてユダが感じる痛みなのか、それともユダが与える痛みなのか。
 ヒトならざるものに変わろうとする異質に対する軋みなのか。
 ヒトならざるものに変えようとするユダが放つ扇動なのか。
 ユダは告げる。血を飲めと、精気に満ちた血を飲み、力を、ジューダスペインを振り払うだけの魔の力を補給しろと。

《あの女の首をもげ。傷口から迸る血潮を浴びろ。さすれば貴様は力を得る。さすれば貴様はユダとなる》

 怨念は隙間風のように唸る。狭い空間で反響し、少年の身体の隅々までくまなく満ちる。声は何も救ってはくれない。だがこの声に促された先にあるものが苦痛からの救済だということは、うんざりするほどのくどさで血が訴えてきていた。
 ……良いだろう。心の中で笑む。
 それしかこの苦痛から逃れるすべが無いのなら――
 それでこの苦痛から逃れられるなら――
 それでこの身体が動くのなら――
 ならば躊躇無く、あの女をくびり殺そうではないか。

(……)

 決意をした瞬間、苦痛はうっすらと半分ほどが消え、残り半分はそのまま身体を冒し続けた。
 まるで御者に手綱を緩められた荒馬だと、少年は感じていた。走る自由は与えられた。だが奔放に駆ける自由はいまだ束縛されたまま。
 だが、そんなことは、もはや、どうでも、いい。

「……」

 言葉は無い。胸の内より吐き出される炎のように熱い吐息。気道を焼くのではないかとすら思わせる吐息の熱は、ひたすらに昂ぶっている血への熱情。
 ゆらりと立ち上がる。苛まれながら立ち上がる。促されながら立ち上がる。殺すために立ち上がる。
 標的は眼前。いまだ放心したまま動かないそれを、歩み寄って両手を伸ばし、首筋をつかんでそっと持ち上げる。噛み付くのは首の根元。血が集まる、最も効率の良い場所。
 ざらり、と少年の赤い舌が唇を舐めた。眼光はもはや理知の光を湛えず、欲情のみに染め上げられた色彩はまるで獣のよう。そして獣じみた吐息をこぼし、開かれた口蓋の中には獣じみた長い犬歯があった。刃物じみた少年の犬歯は、ゆっくりと、その時間さえ嗜むかのようにゆっくりと、女の首筋へと向かっていった。

ずぶり

 牙が肉に食い込む感触。そしてその音。
 肉はひどく脆い。ほんの少し傷つけられただけで魂の鎧としての役目を失う。人間は不完全なのだと、何かの本で高説を垂れていたことを思い出した。人間は神の失敗作だと。だがだとすればそれが。――女にとっての幸運となったのだろう。

「――――あ」

 呻く。ぽたり、とその口元から血が滴った。少年の口に溢れた血は、それは女のものでは決してなく、ならばそれは、紛れもなく少年自身が流した少年の血だった。
 少年の胸に杭が生えている。銀色の、とても鮮やかに月光を反射する、まるでその為だけに作られたのではないかと思わせる美しい杭。
 少年も女も、その杭を見ていた。唐突に生えた、唐突に傷つけた、唐突に現れた、銀色のそれ。
 少年も女も、理解は出来なかった。様々なこと全てを理解できなかった。だがこの状況の中で、唯一的確な判断を下せたものがいた。少年の血、ユダ。
 同化の始まっているユダの血は迅速に少年へと情報を伝えた。"それ"に関する情報が、先ほどクルスニクと対峙していた時のように湧水のように頭に溢れてくる。

「法儀式済み銀剣――サントクリスト教会――」

 痛みなど感じないのか。それともそれに勝る怒りか。それに勝る血への衝動か。
 少年は与えられた情報を握り締めながら、背後にいる"それ"へ振り返り――魔力を込めた右拳を薙ぎ払うように叩きつけた。

「貴様らか、異端審問委員会――――!」

どん!

 接触した衝撃は火薬の爆発のようだった。魔力は標的に触れた瞬間炸裂し、力の膨張が衝撃波を生んで弾ける。炎も生まず光も見せず、少年の拳は不可視の圧力でもって殴りつけた相手を数メートル押し飛ばした。
 しゅう、と擦過熱で革が焦げる。それは飾り気の無い黒革の鞘。剣の収められていない鞘は左手に握られ、顔を庇うように持ち上げられている。鞘の主はといえば、右手に携えられていた。切っ先を少年の血で濡らして、地面につくかつかないかのところで浮いている。

「ほう、我らの事まで呼び起こしたか」

 "それ"が告げる。持っている剣と同じ鮮やかな銀色の髪。持っている剣を連想させる切れ長の双眸。持っている剣のように頑なで鋭い容貌。それは形容してしまえば、剣のような男だった。
 教会で良く見る黒い聖服を纏ったその若い男は、少年の殴打を防ぐために掲げた鞘を下ろし、ゆっくりと、何か儀式めいた厳かさで、ぴんと姿勢を伸ばした。

「いかにも。我は異端を祓う者。貴様等を屠る者」

 その居姿さえも剣を思わせる。
 男は少年を鋭い眼差しで見据えたまま、胸元でさっと聖印を切った。

教会聖騎士ディバインナイト、ヴァイゼ・シュヴァルツァー」

 それは名乗りと呼ぶにはあまりにも小さい。ただの独り言のような短い詠唱。
 だが男にはそれで十分だった。聞かせる必要など無い。ユダは全て斬り伏せるべき対象であったから。
 だから、それだけ言って、男は少年へ向けて歩みだした。
 剣を手に。鞘を腰に。そして与えられた聖名を胸に。



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