5.狩る者と狩られる者 「ひ……ひっ――!」 どすん、と石畳の上に尻餅をついて、黒髪の若い女は悪魔でも見たような怯え具合でか細い悲鳴をあげた。花びらのように路上に広がったロングスカートの下には、月の光を浴びておどろおどろしく輝く血の海が広がっている。じんわりとスカートに染み込んでいく誰かの血は、紫色のスカートをだんだん気味の悪い色合いに変じさせていった。 「見たね――」 あたりを白々と照らす月明かりの下、それは血塗れの顔で女に言った。頭から爪先までびっしりと血の雫にまみれた、妖しいほどに美しい面立ちをした少年。まだ春は終わらないというのに上半身裸で、透けるような白い肌にのった赤い血がまるで宝石のように輝いている。少年の足元には、おそらくは人間だったのだろう幾つかの丸い塊が血溜まりの中に転がっていた。 少年は女に笑いかけた。とても穏やかで、静かに。安堵させるのではなく、安息をもたらすのでもなく、ただ、己の恍惚に酔いしれるかのように、身勝手に。 「見たなら、殺してあげる。食べてあげるよ」 にやり、と少年が口の端を釣り上げると、そこから獣じみた長さの犬歯が顔を覗かせた。ナイフのように鋭利なそれは、いましがた刺し貫いたものの血で、赤く染まっていた。 「――――っ!!」 悪夢を振り払うように、女が頭を振って悲鳴をあげた。だが――声が出ない。ありったけの気力を振り絞っているのに、彼女の声帯は微細な震動も生んでくれない。 先の男と同じく慌てふためく女の様を見ながら、少年は嬉しそうに両手を広げて歩みだした。女は腰が抜けたのか尻を引きずりながらずるずると後退っていく。少年の歩みはゆっくりとしたものだったが、それでもガタガタと震えながら這いずる女よりかは早いため、二人の距離は徐々に縮まっていった。 「―――っ、―――っ」 いやいやをするように泣き顔で女が首を振る。絶望の底に叩き込まれたよう悲壮さで、音の出ない声で必死に何かを叫び続けている。這いずりながら地面にしみた血や肉片さえも引っかき集めているため、彼女の小奇麗な衣服と華奢な手先は惨憺たる彩りを醸していた。だがどれだけ汚れようとも、そんなことは彼女にとって、今の彼女にとっては些細な事だ。彼女の頭の中にあるのは、目前に立つ死の具現が今から自分をくびり殺すという予感。走り出すことも助けを呼ぶことも出来ず、何もかもがままならないこの身体と永遠に別離するのだという予感。 少年は―――死の具現は、とうとう女のすぐそばまで辿り着いた。年齢不相応な聡明さを持った冷たい瞳で、ひたと彼女を見据えている。生乾きの血がはりつく口元を少しだけ吊り上げて、鋭い犬歯の先をちらりとのぞかせて。 女はその少年の視線に射すくめられて、凍りついたように蒼ざめて縮み上がった。琴線が張り詰めたようにか細い全身が硬直して、引きつったまま固まった顔で呆然と少年を見上げる。もはや動くことも出来ず、女はその瞬間、全てが終わりを迎えるのだと確信した。 す――― 少年の手がのびる。差し出された右手は、いたわるような優しさで女の顎に触れた。 びくん、と、触れられた瞬間女の動悸が跳ねた。ひきつけを起こしたように呼吸をあらげて、ぼろぼろと涙をこぼしながら自分に触れている少年の手に視線を落とす。その手は人間ではありえない冷たさで、まるで―――死体のもののようだった。 「じゃあ、さよなら」 薄笑いを浮かべてそう言って、少年はくいと女の顎先を持ち上げた。 殺される―――女は身体に押し寄せる絶望を締め出すように、ぎゅっと目をつむった。こうすれば、ぜめて自分の死に様は見ずに済む。いったいどうやって自分は殺されるのだろうか、喉笛を食いちぎられるのか、首を折られるのか、それとも頭から食べられてしまうのか。どちらにしろ、痛みは一瞬だ―――おそらく一撃で仕留められる。なんとなく、そんな気がする。 そんなことを考えているうちに、少年の指先が肌を撫でながら首筋へと移っていった。ちょうど頚動脈の上あたりで、ぴたりと止まる。 「――――っ!」 終わる。死ぬ。女はそこが"ポイント"だと直感的に悟った。 少年の指が首筋を圧し、爪の先がつぷりと肉を裂いた。 ―――その時。 「そこまでにしとけよ――― 声が、不意に聞こえてきた声が、動脈を裂かんとしていた爪の動きをぴたりと止めた。あと少し刺し込めば血管に届くというのに、まるで声に縛められたように、それ以上深くなることも浅くなることもなく、緊迫したように動かなくなる。 (え……) 恐る恐る女は目を開けた。顎を持ち上げられて上向いていたため、視界にまず少年の顔がうつる。女性のように綺麗な細面、さらさらの紺色の髪の毛、ルビーみたいな赤い瞳。部品だけを見れば可愛らしいのに―――その顔にはおぞましいほどの禍々しさが宿っている。先程までの冷酷そうな笑みは消えうせて、今は怒りを孕んでいるかのように眉間に皺を寄せていた。 少年の目は女を通り越してその背後を見ていた。おそらくその方向に"声"の主がいるのだろう。誰だか知らないが、無謀にもこの悪魔のような子供に挑む命知らずが。声を聞く限りでは、若い、成人を迎えた頃合の男のようだった。 「ぼくをその名で呼ぶ貴様は何者だ」 唸るように凄味をきかせた声で、少年は声を発した。双眸には警戒の色がありありと浮かんでいる。まるでいまにも飛び掛っていきそうな、そんな烈しさが表情から窺い知れる。 「はっ―――こりゃ失礼」 それに対する声は、ひどく剣呑で飄々としていた。なにひとつ怖がっていない。この血塗れの惨状も、あたりに散乱する死骸も、そこに立つこの少年にも、ちっとも怖れを感じていない。むしろ、それらを楽しんでいるかのような余裕さえあった。 「俺はクルスニク。あんたらにはそう呼ばれる」 くるすにく?―――女には覚えがない言葉だった。 だが少年には覚えがあったらしい。右の眉がぴくんと不機嫌そうに跳ね上がる。 「クルスニク……ユダ殺しの 眉をそばめ犬歯を剥いて、少年は怒気を孕んだ声音でそう言った。クルスニク。ユダ殺し。異端者。まるで親の仇でも見るかのように、その表情は忌々しげに、憎々しげに歪んでいる。 ちくり。女の首筋が不意に痛んだ。忘れかけていた少年の爪先。それがほんの少しだけ、肉を深く抉ったらしい。 (この子、動転している……?) それは間近で見上げていた彼女だけが気付いた、少年のほんの微かな身体の震えだった。 >>>Next 『6.戦闘開始』
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