4.夜のはじまり 時刻は真夜中、二十四時。 晩冬の夜はしんと冷え込んで、通りの上を刺し貫くような微風がそよいでいる。今朝方虐殺事件があ った九番通りの風は、目に見える痕跡はもう残ってないというのに、いまだ生臭い血の残香をかすかに 孕んでいた。 おそらく怖気がするのはそのせいだ。現場の見張りを命じられたクレンツ三等官は、にわかに湧いた 肩の震えを手で押さえながら胸中でそうぼやいた。 「ついてないよなぁ…」 武装警官隊に配属されて二年目の彼は、まだ貧相さが抜けきらない頼りなさげな顔できょろきょろと あたりを見回している。 別に何かをしろと言われたわけではない。ただここの保全をしろと命ぜられただけだ。だが昨日まで 同僚だった人間たちが死んだ場所の上にいるということは、まるで自分も彼らの領域に踏み込んでいる ような気がしてならなかった。 何気なく、封鎖テープの中へ視線をやる。全ての死体は回収され、残った血の染みも業者によってき れいに洗い流された。しかしだというのにゆらゆらと瘴気のようなものが漂っているように見えるのは 、本当に錯覚なのだろうか。まるでこちらを誘うかのようにうごめく夜の蜃気楼。手招きをする親友の 姿が一瞬垣間見えたような、そんな幻視さえ起こる。 「――!?」 馬鹿な。幻視だと――? クレンツは熱に浮かされたようになっている頭を強く振った。いかに精神が疲労していようとも、 シラフの状態で幻視を見ることなどありえない。 そして再び目を開けて封鎖区域の中を見ると、そこにはやはり幻視などではない何者かが立っていた 。昨日死んだ同僚ではない。人影は小さく、少年のようだった。 「おい、シュレク――!」 異常を伝えるべく、三メートル程あけて右隣にいる同僚へ声をかける。 だが同僚(シュレク)は呼びかけに応じる素振りも見せず、ただ通りの先を向いて仁王立ちするばか りだった。 なんなんだ――苛立ちながら、一旦少年を見やり、何も動きがないのを確認して、再びシュレクへと 向き直る。 「おい――」 シュレクの顔をうかがおうと歩み寄った時だった。 月明かりだけが照らす薄明かりの中、シュレクの足元にきらりと光る物がある事に気付く。僅かにか がんで確認すると、それは彼の瞳だった。彼の身体の左半分が、地面に横たわっている。 「お――」 よくよく見れば、シュレクの身体は真正面から一刀両断されたみたいにすっぱり断ち割られていた。今まで見え ていた部分だけがバランスを一切無視して立っている。クレンツが近づくと、役目を失ったかのように 残り半分も地面に倒れこんだ。 「ひ…」 悲鳴をあげる。それが現実を取り戻す唯一の手段であるかのように、彼は力の限りを尽くして絶叫し た。 「――――!!」 が、悲鳴は声にならず、息だけが音もなく体外へと漏れていくだけだった。 ひとしきりその無駄な呼吸らしき行為を繰り返して、やがて力尽きたのか、クレンツはぺたりと地面 にへたりこんだ。 わけがわからず、もはや成すすべ無いといった様子で、がたがたと震えながら先ほど見た少年へ目を 持っていく。 少年は最初現れた位置から全く動いていない。 十五、六歳位で、痩せぎすな体格。はき慣れた感のあるジーンズに、上半身は裸。 髪は鮮やかな深緑。そして闇夜の中で煌々と輝く真紅の双眸。 クレンツと目が合うと、少年はくすりと女性的な笑みを浮かべた。 「声を封じさせてもらったよ。断末魔っていうのはちょっとうるさいからね、皆が起きちゃう」 冗談でも言うように可愛げな仕草でそう言って、少年はつと動き出した。 ぱくぱくと口を動かすクレンツへと歩み寄る。 腰が抜けたのか気力が尽きたのか、少年が目の前まで近づいても、クレンツはまったく動こうとしなかっ た。 ふっ―― と、少年は笑みを深くした。 淫靡な、底の知れない妖しさを持った笑みを。 「じゃあ、さよなら」 ばつん! とゴムが弾けるような音がして、クレンツの身体は一瞬で十個ほどの部品に分割された。 おびただしい血が雨のように通りに降り注ぎ、そばにいた少年の身体が真紅に染め上げられる。頬に ついた血を指で拭って、少年は恍惚とした表情で舌を伸ばし、愛撫するように丹念にそれを舐めとった 。 >>>Next 『5.狩る者と狩られる者』
<次へ> <前へ> <目次へ> |