3.裏切りの符丁


 ユダ。それは裏切りの符丁。そして背反者の別称。あるいは蔑称。
 教会の創始者たる聖者を裏切り、教義に背反した十三番目の信徒。ジューダス・プリースト。
 もう二千年前の話だ。以来教会は背反者、異端者を厳しく取り締まり、そういった"不埒な輩"をユダと呼んで蔑んできた。それらはなべてひとの道に背くものだと、そう言いはって。
 実際に彼(ユダ)が何をしたのか、それを知っている人間はいない。誰一人として記憶していないし、史実にも残っていない。だが彼の裏切りの痕跡は聖書の一節に厳然と書き記されている。教会史上もっとも重い裏切りの罪の記録が、神聖な聖書の中に記されている。

「――――」

 憂い顔で溜息して、ゼーゲン・ヴォールタートは目を落としていた聖書を閉じた。
 四十半ばほどの中年で、やや丸みを帯びた貌が見るものに柔和な雰囲気を感じさせる。仕立ての良い黒い法衣と、胸元に銀十字の刺繍が入った黒い外套を羽織っている。法衣は彼が神父であることを示し、外套は神父の中でも権威のある大司教の地位であることを示していた。
 大司教ヴォールタート。それはこの街の教会を取り仕切る、偉大なる父(ゴッドファーザー)のひとりの名である。

 聖書を読んでいたのは、ただ単にそれが開きっぱなしになっていたからだった。聖者の像が見下ろす、礼拝堂の中の司祭の教壇。いつもなら気にも留めずに閉じるだけだったが、なんという偶然か――よりにもよって今日この日に、聖書は異端の中の最異端"ユダ"の頁を開いてゼーゲンを待ち構えていた。
 手を止め、目を留めるしかないだろう。今日、おそらくつい数時間前の真夜中に、そのユダが武装警官隊三十人を虐殺したのだから。

 三十人。それだけの命がこちらの不手際によって失われてしまった。
 ゼーゲンは痛みを堪えるように目をつむり、閉じられた聖書にそっと掌をあてた。

「殉じた汝らの苦痛が、神の御手によって救われんことを……」

 一介の人間の言葉など、言霊が乗らないことはわかっている。
 だがそれでも、ゼーゲンは彼らの冥福を祈らなければならない。市民の安息を司る司祭として。そして彼らを間接的ながらも動かした者として。

「――――」

 十秒ほど経っただろうか。ゼーゲンはすっ…と目を開けた。
 それで瞑目が終わったというわけではない。彼は誰かが呼び止めるまで瞑り続けるつもりだった。
 彼を呼び戻したのは、人の気配だった。

「ヴォールタート様」

 視界が開けると、教壇の前にひざまずく銀色の髪の青年の姿が見えた。
 青年はゼーゲンと同じ漆黒の法衣を羽織っている。彼はこの教会に十人いる司祭のひとりで、ゼーゲン直下の――いわゆる直属の部下のような地位にあった。

「準備整いました」

 うやうやしく頭を垂れ、凛とした声で青年が言う。
 青年の仕草はまるで王宮騎士のように冗長なほど敬虔だった。

(…騎士も司祭も、仕えるものが違うだけでたいした差異はない、か)

 そんな青年の態度に応じるために、ゼーゲンは己の中の鷹揚さを精一杯引き出そうと努めた。落ち窪んでいた気持ちを振り払い、聖書に手を置いたまま、胸を張る。
 そう。違いなど無いのだ。我らは神に仕える司祭という名の――騎士である。信心を糧とし、剣とし、ただ一心に御主を守護する騎士なのだ。
 ゆえに、我らに惑うことは許されない。貫き徹す剣は真っ直ぐ立たねばならない。

「では、ゼーゲン・ヴォールタートが命ずる」

 厳のある声で、ゼーゲンは青年に告げた。
 さながら騎士に対する王のように、威厳をもって。

「ヴァイゼ・シュヴァルツァーよ、汝の剣をもって、神の名の下にユダを処断せよ」

 ゼーゲンの言葉を受けて、青年――ヴァイゼは俯いていた顔を僅かに上げた。
 銀の前髪の隙間からのぞく冷たく鋭利な碧眼が、吊りあがったまま、微かに笑みの光を湛えた。

「了解しました。全ては主の御心のままに――」

 ざっ――とヴァイゼが立ち上がり、礼拝堂の出口へと踵を返した。
 たなびく黒い法衣の裾、ちらりちらりと見え隠れする黒い剣の鞘。

『Amen』

 申し合わせたかのように二人の聖言が唱和した。
 それが合図となり、教会の"剣"ヴァイゼ・シュヴァルツァーは礼拝堂の出口へ向けて歩き出した。



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