2.ノーザンフォール


ずるり――

 唐突に、壁から人間の腕が生えた。
 黒い服を着た、おそらく成人した男のものであろう右腕。
 驚くほど均整の取れた、無駄のない引き締まったその腕は、現れ出たその奇怪さとは裏腹に、いとも気楽そうにウニウニと手のひらを動かし始めた。

「――」

 どうやら、何か――近くの状況を探っているらしい。
 腕はまるで狙ったかのように書棚と書棚の隙間に生えており、人ひとりが通れる程度の空間を何に当たるでもなく動き回っている。

 そんな異質な状況が数秒程経過して。
 ようやく腕は確信を持てたのか、ぐっ、と拳を握り、快活の構図をとった。

ずるり――

 そして腕は徐々にこちら側へ突き出てくる。
 二の腕が、そして肩口が見え、やがて――女みたいな童顔の男がひょっこり貌を出した。

「――」

 ずずず、とコーヒーをすする。
 男が壁から這い出てくる一部始終を見届けながら、古書店の店主エディエル・ノーザンフォールはひどく落ち着いた様子でカップを傾けていた。
 齢四十と五。紳士崩れのような風体の長身痩躯の彼は、研がれた刃のように険のある双眸をじろりと横目にしている。

「――」

コトン

 と、わざとらしく音を立てて、カウンター(兼テーブル)にカップを置く。
 その音に気付いた這い出た男は、悪戯を見咎められた猫のように、書棚の森の中でビクリとその身を震わせた。

「おはよう、バケモノ君」

 さらりと、落ち着いた声音で男へ言い放つ。
 クェイドの視線に対して真横を向いている男の顔が、ひきつったような笑みを浮かべた。

「お、おはようございます、エド――」

 ぎ、ぎ、ぎ、ときしみ音を立てながら、ブラックの首がこちらを向いた。
 二、三筋ほど冷や汗を垂らし、まるで怯えているように小刻みに震えている。

 その様子を冷ややかな目で見据えながら、エドはもう一度カップを持ち上げ、口につけた。
 嚥下し、ふぅ、と軽く吐息してから、ゆっくりとカップを下げる。
 
「う――」

 いたたまれない雰囲気に気圧されたか、ブラックが小さくうめき声をあげた。
 これから何をされるんだろう――罰則に怯える子供の顔だ。
 紙袋を抱え、出てきた姿勢で立ち尽くしたまま、こちらの次の動向を窺っている。

「別に何もせんよ。儂の言い付けを守るのも、時と場合による」

 そう言って、エドはブラックから視線を外した。
 外した視線は、流れるように戸口へと向けられる。

「外がアレじゃあ、誰だって正面からは入って来れんしな」

 外。
 今はショーウィンドウにさえブラインドが下ろされたその向こうには、血も凍るようなおぞましい惨状がひろがっている。
 綺麗に断ち割られた警官達の死骸。馬鹿げた量の血痕。汚れた街並み。吐き気をもよおす臭い。

「驚いたね。朝起きて窓を開けたら――アレを見ちまった。お陰で目覚めが悪くてしょうがねえ。お前、聞いたか? 武装警察隊がな、三十人も殺されたんだと」

「へ――?」

 三十人?
 かくん、とブラックの肩がコケる。

「外じゃ、二十人って言ってだぞ」

「いいや、三十人だよ。ついさっきまで警官が来てたからな、話ついでに聞き出した。公僕が自分トコの死人を多く喋るワケがねえから、おそらく正解はコッチだ」

「なん――だよ、そりゃぁ」

 にわかに青ざめて、ブラックは取り落としそうになっていた紙袋を抱えなおした。
 エドと同じように戸口へ目をやる。ブラインドの隙間からは、紛れも無い赤い血の色が漏れてきている。ガラスに張り付いた血痕と、何だか知りたくも無い小さな塊がいくつか、朝日に透かされて斑の影を作っていた。

「で、な――」

 不意に、神妙な声。ブラックが見ると、エドは真剣な眼差しで彼を見据えていた。
 空になったカップをカウンターの端に押しやり、卓の上で両手を組みあわせる。

 鷹の目のような鋭い眼光に射抜かれて、ブラックは押し黙るしかできず、ただじっとエドの次の言葉を待った。

「これはウッカリ口を滑らせたんだろうな。あの警官、去り際に聞き捨てならねえ事を口走っていきやがった。多分聞いたら卒倒するぜ、お前」

 エドが言った台詞は、卒倒こそ起こさなかったものの、それと変わらない位苛烈にブラックの頭を揺さぶるものだった。
 ほんの僅か、皺の走った目端を吊り上げて、彼が言う。まるで笑っているように。愉しそうに。

「教会が動いてる。犯人は"ユダ"らしい」

 どさ、と紙袋が床に落ちた。



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