1.血まみれモーニング


 毎朝買い出しをしてから出勤するのが彼の日課だった。
 昼飯に使う食材と、店主が湯水のように消費する珈琲豆、そして煙草を一箱。
 早朝営業の食材屋でいつものように買い物を済ませ、ずっしり重い紙袋を抱えて店へ歩く。

「ったく、クソジジイめ。たまには自分で行きやがれってんだ」

 呪詛を吐くように、彼――ブラックは愚痴をこぼした。
 黒髪、黒目、黒ずくめの、二十歳ほどの青年。
 ゆったりしたハイネックにレザー・パンツ。腰にはベルト代わりに銀鎖が巻かれている。
 年の割には童顔で、まるで女性のように小奇麗な顔立ちをしていた。

「だいたいなんでアイツの食い物まで用立てにゃならんのだ。老いぼれの癖にバクバクバクバク喰いやがって…重いっつの!」

 口を尖らせてぶつくさ言いながら、人気のまばらな街通りを歩く。
 通りの両脇に並ぶ店舗はどれも戸口を締め切られ、開店する気配など微塵もなく静まり返っている。
 ちらほらと見える通行人は自分と同じように早朝出勤を余儀なくされた雇用者達なのだろう。それぞれが思い勝手に行く先へと歩を進めている。

 まぁ、いつも通りのことなので、さしたる感慨もなくさっさと店へ歩を進める。
 若い女の店員が水をまいている花屋を通り過ぎ、次の角を左に曲がれば、勤め先のボロ古書屋『ノーザンフォール』の木看板が見えてくる。そうしたらこのクソ重い荷物ともオサラバ。始業前の一服が俺を待っている――!
 ハズだった。

「はァ――!?」

 思わず、絶句する。
 角を曲がった先にあったのは、いつも見慣れた閑静な街通りではなく、ゴチャゴチャと道いっぱいに溢れた人だかりだった。幅員五メートル程の細い通りにびっしりと人が埋まっている。
 呆気にとられて立ち尽くすブラックの耳に、誰かの小さな話し声が飛び込んできた。

「警官ですってよ――」

 警官。よく見れば人だかりの向こうに数人の警官の姿が見える。手に警棒を持ち、押し寄せる野次馬を難儀そうに遠のけている。
 何か事件があったのだろうか。勤め先の店は警官によって押し止められている位置よりもっと奥にあった。なんとなく胸騒ぎがして、人垣をかきわけて前に出ようとした。

ふわり

 刹那、不意に吹き付けた風が顔を撫でた。
 それは匂いを運ぶ風だった。錆びた鉄が腐ったような、胸糞の悪い匂い。
 覚えがある。これはきっと、腐敗の始まった血の匂い――。

「…っ!」

 歩き出そうとした足を無理矢理止めて、ブラックは人だかりから顔を背けた。
 吐き気がする。
 何故気がつかなかったのだろう。
 顔をしかめて悪臭に耐えながら通りを見れば、そこらの屋根や軒はペンキをブチ撒けたような馬鹿げた量の血で汚れていた。もしかしたらペンキそのものなのかもしれない、なんて淡い期待は、その血泥の中に垣間見える肉の塊によってあっさりと打ち砕かれた。
 趣味の悪い芸術家が描いたような、血塗れの街並み。人だかりの頭上の光景だけでこうならば、その足元はいったいどれほどの惨たらしさなのか。

「警官が二十人も殺されたらしいですよ――」

 誰かの声は、そんな馬鹿げた冗談をさらりと言葉にした。
 成程。二十人の人間が腑分けされたならば、確かにこの血の量も、匂いの酷さも、合点がいく。
 だが、普通の人間ならまだしも――警官が? 最高の訓練と最高の装備を誇る組織のスタッフが、一夜に二十人も殺されただと?

 そこで、はっとブラックは気付いた。
 店だ。ノーザンフォールはこの惨状の渦中にある。
 店に住む老店主もまた、あの渦中にいる。

(ジジイ――)

 慌てて駆け出す。
 比較的隙間の多い左端を通り、紙袋が潰れるのも構わず人垣を越える。

 やがて眼前に広がった悪夢のような惨状を見て、ブラックは絶句した。

 通りをくまなく満たす血のカーペット。
 その中に埋もれるおびただしい数の人間の部品。
 壁という壁におぞましい彩色が施され、あちこちに肉の塊がへばりついている。

 眉間に皺を寄せながら、血だまりの上を歩く警官達。
 誰よりも近い位置でおぞましさと悪臭に耐えながら、捜査に差し障りない程度に身内の死体を片付けている。

 ノーザンフォールは通りの左手、ブラックの位置からおよそ十メートル先にある。
 隠れ家の入り口みたいな寂れたドアが、雨雫を撥ね散らかされたように赤い斑で汚れていた。
 少し走ればすぐ届く距離だ。が、運の悪いことに目の前に警官が立っている。
 小岩のように頑健な体躯の警官は、不意に飛び出てきたこちらを威圧するように睨み付けてきた。

(走って抜けたらとっ捕まるだろーな)

 などと不穏な事を考えている気配を押し殺して、さっとあたりの様子を窺う。
 保全テープの中で動き回っているのは、警官が十人、死体検視官らしき白衣姿の男が二人、それと手回しの良い事に――初老の神父が一人。
 よしんばこの体格の良い警官をかわせたとしても、すぐさま他の面々に取り押さえられるだろうというのは容易に想像できた。

 ま、そんな馬鹿な真似はしないに限る。
 この界隈で騒ぎを起こせば店の信用に関わるし、そこまでして店に急ぎ、老店主の生存を確認しなければならない理由など――よくよく考えれば、無かった。
 あの老人はおそらく地獄に落ちてもすぐに舞い戻る。

 だが、まぁ…店には行かなければなるまい。
 万が一という事がある。

「………」

 仕方ない、と嘆息して、ブラックは脇にあった路地へ向かった。
 細い路地は幾度か曲がりくねった後、行き止まりにぶつかる。
 前と両脇には二階建ての建物。辺りには梯子も縄も、引っかかりもない。

「このへんか」

 コン、と右手の壁を叩く。
 そこは大体の見当をつけた、店の裏手の壁。
 ひたりと掌を当てると、その手がずぶりと壁の中に沈みこんだ。

「疲れるんだよなー、コレ」

 その異常な光景とは裏腹に、彼はいたって気楽そうに、カーテンでも潜るかのごとくするすると壁に埋もれていく。
 やがて半身が消え、紙袋も、残りの半身も消える。
 全てが壁の中に飲み込まれて、後にはひっそりとした路地だけが残った。



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